禿生 * hagenama

1968年生

千葉県出身

東北在住

広告デザイナー

食欲強し

幼児期は祖父母にたいそうかわいがられて過ごしたそうです。欲しいおもちゃを買ってもらえないと、その場で寝転がってダダをこねる子でした。しつけはきびしめで、毎日テレビを見ていい時間は30分と決められていました。母は流行に踊らされるのを嫌う人間だった為、TVCMで流れるジュースやカップラーメンのようなインスタント食品は我が家とは無縁のものでした。いつも食べたいな…と思っていました。冷蔵庫には牛乳と水、おやつは母の手作りのモソモソしたマドレーヌ(バター超控えめ)。

小学校にあがり自意識が目ばえると同時に母とのケンカの日々がはじまります。床屋は母がハサミでざんぎり頭、衣類なんにでも名前を書いちゃう、文房具も超地味、洋服も見よう見まねで自分で作ってしまうからスッゴイ変!小学生高学年でジャージがメチャメチャ流行るのですが、みんながアディダスとかプーマとか言ってる時にボクが着てたのは生協の協同購入で買ったノーブランドのオヤジジャージでした…。

中学時代はガンプラ集めたり(買うだけで作らない)、田んぼでカエルを捕まえたり、初めて彼女ができたけど一度もデートせずに自然消滅したり、盗んだバイクで走りだしたり…あげく捕まったり。タバコを覚えたのもこの頃でした…以来20年間、週1箱という「だったらヤメちまえ!」なペースでの喫煙が続いています。小学生の頃からの事ですが悪知恵がやたらと働き、古紙回収業者からエロ本を盗んできて学校で売ったり、親の財布から10円玉 だけコツコツ盗んだり、万引きしてきたブルーベリーガムを箱ごと転売したりして小銭を稼ぎ、ペプシコーラを飲んでました(家じゃ飲めないから)。

市内の県立高校に通うようになっても、あいかわらず田んぼにカエルをとりに行ったり、とったカエルを解剖したりしていました。高校時代はエブリデイ遅刻魔でした…しかも、2時間目の途中から「あーーダリなー」とか言って登校するわけでなく、毎朝全速力で自転車を漕ぎそれでもギリギリ遅刻!という「うおっ!あと30秒!」みたいな事を毎日毎日…全校生徒でたた1人、遅刻が原因でグランドを10周回ったり、坊主頭にさせられたりしていました。あとは…音楽に目覚め、千葉テレビのPVをダラダラ流してる番組を録画しまくったり、自分でも楽器をいじるようになったり、古着にハマってサラリーマンの格好して街でたそがれたり(なんかちがうよなあ…と思いながら)、彼女ができたり、別 れたり、またできたり、自分の部屋でいちゃついてるのを母に見つかり女人連込み禁止礼が出たり、原宿ホコ天で喫煙してて補導されたり…

成績はもともと悪く、ただ絵を書くのだけは好きだったので美術部に入りデッサンを教わり美大に!の予定でしたが、その時の美術の先生が現代美術のアーティストだった為、オブジェを作る!とかそっちの方を影響受けてしまい日がな1日美術室で粘土をこね、リアルなチンコを作って保健の先生に見せに行ったりしてました。おかげで、デッサン力など全くつかず早々に受験をあきらめ4年制のアートスクールに通 うことにしました。

新宿のアートスクールのグラフィックデザイン科に通いはじめるのですが、バイトやデートやバンド活動が忙しく学校は適当星人でした。学校のロビーにはデザイナーの卵がおしゃれな格好してタバコをふかしてましたが、ボクは馴染めず近所の公園でロボのようにカップ麺とオニギリを食べていました。そんなボクにも一応友達はいました。台湾人のBOKU君と音楽の趣味があった青木君…ものすごく真面 目に学校に通う青木君のおかげでボクは卒業できました。BOKU君はバイトが忙しくて、あまり学校に来ませんでした。そして学校の卒業式…あれだけ個性的なファッションに身をつつんでいた同級生がみんなスーツを着て来ててビックリしました…ボクだけダブルの皮ジャンにウエスタンブーツ…

そんなボクでもバブル盛況期のおかげで、大手企業に就職する事ができました。ピアノの営業をこなしつつ、1人暮らしをはじめ真っ当な人生がはじまるかと思いきや、バンド仲間の「いっちゃんはズルいよな…」の一言にカチンときて退社。音楽で食ってやろうじゃねえか!と奮起するも思い込みだけが空回りしてしまい、ライブハウスで格好つけてる自分が自身の妄想を上回る事はなく失速…気がつけば、憧れていた「ミュージシャン」などではなく「フリーターのロック兄ちゃん」でした。

バンドは自然消滅…1人、畳の部屋でギターを鳴らしながらバイトを転々とします。ピザ屋、引っ越し屋、自転車屋、レコード屋、カラオケ屋、肉体労働もたくさんやったな…いつもお金がなくて欲しいものばかりだったけど、友達はいっぱいいたし、彼女もいたし、実家も近くにあったので自分の貧しさを自覚する事はほとんどなかった。子供の頃、無理矢理ストイックな生活をさせられていたボクはとにかく身体が丈夫で、メシはいくらでも食えるし、お酒を飲んでも吐いたり二日酔いになる事もなかった。

25歳の時、飼ってたカメの飼育法を調べてるうちに熱帯魚屋で働く事になった。そこの店は通 常の販売以外に、熱帯魚や水草をディスプレイした水槽を企業にレンタルしていた…例えば、銀行の受付とか、飲食店のカウンターとか。この仕事がハマった!アートスクールで学んだ事が生かされ、すぐにコツを覚えられたし評価も良かった。1年後には都内で行われた観賞魚フェアの企画「ディスプレイ水槽コンテスト」で「振興会会長賞」もいただいた。しかし、じきに辞めてしまった…同僚に商品(熱帯魚)を雑に扱う人がいて、その人と揉めたからだ。

熱帯魚屋の仕事で物を作る快感に目覚めたボクは、次の仕事も物を作る仕事にしよう!と思いたつ。が、年齢的にも「経験なし、27歳」の人間にハードルは高く、無職の日々が続く。毎日1人の部屋で将来を案じ悶々とし、週に1冊のBingだけをたよりに生きていた…こんな生活が半年ほど続いた…時間だけはたくさんあるのに動けない、歩けない、後回し後回しの日々のせいでボクはベットに打ち上げられた水死体のように饐えていた。彼女も友達も寄り付かなくなっていた…親から借金し、どうにか部屋代を払い続けていた。そのうちベットで寝ていると、部屋のすみから髪の長い女の人が歩いてきてボクの顔をのぞきこむようになった。ヤバかった。ボクの脳が煮詰まってるせいか、ほんとに幽霊なのかはわからなったけど、もうこれ以上こんな生活をしてちゃいけないって事だけはハッキリと分かった。(その後、大家さんに幽霊の話をすると恐ろしい事にボクの住んでた部屋で女の人が2度自殺未遂をおこした事があり「パトカーだの救急車がいっぱい来て大騒ぎになっちゃってさ〜さすがに2度目の時は出てってくれって言ったよ〜」と、アッケラカンと語った)

ボクは製作関係の仕事をあきらめ、カラオケ屋の深夜バイトをはじめた。大学生中心の若いバイトの中で27歳だったボクは浮いていたけど楽しかった。ワイシャツに蝶ネクタイをしめ人気のあったその店のカウンターに陣取り、20何室ある部屋をいかに効率よく回すか考えるのはとても興奮した。バイトの皆はたまに店に来てはいばってばかりいる店長の言う事は全然聞かなかったけれども、歳のはなれたボクの言う事は良く聞いてくれ、声に出して指示しなくてもアイコンタクトだけでダッシュしてくれたりした。そして、店が終わるとボクの為に泡の少ない生ビールをついでくれ、朝までバカ話をして過ごした。

同僚の中に歳の近い人がいて、その人がMachintoshを持っていた。休みの日にいじらせてもらい「これなら自分も使える、デザインの仕事もできる…」と実感。そもそも、アートスクールを卒業してすぐにデザイン系の仕事に就かなかったのは「線引き」とか「カラス口」とか細々した作業が嫌いだったからで、でも、Macを使えばキレイな線をひくのも、レタリングもメンドクサクない!ボクはうれしくなってすぐにMacを購入した(ローンで)。

そんなこんなで、学校を卒業して5年以上もたった今さらボクはデザイナーを目指す事にした。前回の失敗の反省から、今回は「Mac持ってます!ソフト使えます(嘘)!」という事を前面 に「仕事させて下さい!」と頭を下げて回った。作戦が成功し、就職が決まった。折り込みチラシを作っている会社の制作部だった。 カラオケ屋のバイトで知り合った彼女のアパートに転がり込み、都内に通勤を始めた。ボクがその会社に通 いだした時、制作部は5人だった。働いた、とにかく働きまくった。物を作りそれを評価してもらえる事が楽しくてしょうがなく、毎日のように徹夜して働き続けた。 20代の間、迷走し続けてたボクはそのおかげで何でもできる人間になっていた。制作も営業も接客も力仕事も…いろんな職種の人が何を求めてるかがスグ理解できたので、仕事の打ち合わせもスムーズだったし、雑談をしても「ボクも若い時、バイトで似た仕事してましたんで…」と言うと気にいってもらえた。がむしゃらに働くのと比例して会社の利益も伸び、報酬も増え、数年たつとボクは役職がつき、制作部を仕切る立場になっていた。部下は20人を超していた。一緒に暮らしていた彼女と舞浜のホテルで披露宴をあげ、新居に越し、年収も大学卒業後ストレートで入社した友人に追い付き、幸せ絶頂!と言いたいところだが、そうはいかなかった…

嫁とは元々、趣味や性格があまり合わなかった。が、合わないからこそたまに合うとそれがすごく嬉しくて「2人が歩み寄る努力を続けてれば、ずっと一緒にいれるハズ」と思っていた。しかし、我々はそれを怠けてしまった…ボクが深夜まで飲み歩くようになると、嫁も飲み歩くようになり、嫁が自分の給料で好きなものを買うようになれば、ボクも給料は自分で使うようになった。嫁に別 の男の影がちらついた時、ボクは泣きつく事も議論することもせずにヘソを曲げ、離婚だけを主張した。ぶっちゃけ、その頃のボクはモテていた。

妻は離婚に同意しなかった…だが生活も変わらなかった、お互い顔をあわせばイライラし、どちらかが帰宅しない日も多かった。ケンカをするたびに別 々に暮らす事を提案したが、妻は決してうなずかなかった。妻の両親は昔から仲が悪く、長い間夫婦ではなく同居人…といった関係を続けていたから、そういう状態をのぞんでいたのか?どうなのか今となっては解らないが、ボクはそんな関係耐えられなかった。がっぷり四つに組み、互いのマワシをがっちり掴かみあうような…激しくぶつかりあう肉体から飛び散る汗…みたいな…「愛か死か?」みたいな…「オレが龍ならオマエは虎」みたいな…キシャーグワーみたいな…そういうのじゃなきゃヤだった。ヤだったとか言う前に、最初っからそういう人を選んでない!というミスに気づいてはいなかった。もしかして、オレってバカ?

29歳で結婚して2年半。我々は限界まで傷つけあって別れた。

別れる数年前からボクは沖縄にハマっていた。青い海、白い砂浜、うまいビールにうまいメシ!金はあったので、同僚や家族を誘って何回も通 った。東京に戻ってきてドブ川をながめていると、自分からすすんで鳥カゴに入り「窮屈だ!」と文句ばかり言っている九官鳥に思えた。その頃、会社も傾きはじめおり仲の良かった部下は次々に辞めてしまい、社長のグチも狂気を帯びてきていた。その頃、やっとボクは気づきはじめていた「自分に管理職はあわない」と…くだらない理由で役職を奪われたボクは「これでまた物作りに集中できる!もう会議や接待で神経衰弱する事もない!」と喜んだが、社長は再び気合いを入れてガケを昇ってきてくれる事を期待していたらしく、余計に怒りを買う事になった。離婚の1ヶ月前、4年半お世話になった会社に辞表をだした。気持ちよかった、ボクの人生に次のページがあり予測のつかなかった場面 変更がり 登場人物もみんな変わってしまう!その事に興奮していた。

本当は沖縄に移住するつもりだった…というか、今でもそう思っている。ただ、何の因果 か立ち寄った山形にハマった。街中をきれいな川が流れ、立ち並ぶ山並、温泉に囲まれ、おいしい食べ物がいっぱいある。そして何より、カミサンやポチ兄貴やなおなおやてるちゃんが優しく接してくれた事で「山形いいかも…」と、心がなびいた。「沖縄で職を探すのは難しい、本土の人間は地域の人がなかなか受け入れてくれない」調べれば調べる程、悪条件な沖縄での生活に躊躇してたボクの移住先変更が脳内議会で可決された。

基本的に「無言実行」をモットーにしてるボクの突然の決定に、家族も友人も気持ちいい程驚いてくれた。やはり多くの人が沖縄に移住すると思ってたらしい。妻との離婚届を市役所に持って行った次の日、トラックに荷物を詰め込んで1人山形に向った。運転しながら考えた「ついにボクも1人身!あそこを歩いているあの娘も、信号待ちしてる女子高生も(ある意味)みんなボクの物だ!全員ボクの彼女(になる可能性をもっている事は否定できない)だ〜!」 …しかし、山形に着いた瞬間にカミサンと付き合う事になった。予想だにしなかった展開だが、我々2人に悩む予知はなかった。お互い様々な恋愛経験の末に想い描いていた理想のパートナーが、目の前でゲラゲラ笑ってビールを飲んでいるのだ!躊躇する事なくグラスをかわしたのであった。

山形に来て1年間は24時間ずっとカミサンと一緒にいた。自分の部屋に籠ったままそこから動けず、時折発作を起こしては自分を傷つけているカミサンの取扱説明書を全部理解するまで、それだけの時間が必要だった。カミサンが発作を起こした次の日、自分はほったまま仕事に行けるか?と考えると自信がなかった。でも、カミサンは着実に変わっていった…外にいれる時間が増え、発作の回数も減り、それまでは薄かった「○○を食べたい、△△が欲しい」という意識が強くなり、それを実現する為の努力にも抵抗がなくなっていった。そしてボクに言った「もう大丈夫」と。

すでに32歳で、しかも余所者のボクの就職は容易ではないと思われた。職安でも制作の仕事はなかなか見当たらなかったし、あっても募集年齢は低かった。でも、割とアッサリ決まった。面 接の時に「なぜ千葉から越してきたの?いつまでいるの?」と聞かれたので、山形を気に入ってる事、山形の女性と付き合っていて結婚を考えている事を話した。その会社の社長はタメ息をつきながら言った「しょうがねえな…うちに来るか?」採用通 知は5日後と紹介状には書かれていたが、その場で即決だった。社長は続けて言った「オレも他県から来たんだ…つまりムコ養子ってやつさ。お前せっかく東京で役職にまでついてたのに、本当にこんな小さい会社でいいのか?給料安いぞ?」

残っていた貯金をかき集めて2人で住む為の部屋を借り、カミサンの両親にも了解をいただいた。年収は半分になってしまったが、楽しい毎日がはじまった。カミサンは、お金のやりくりや家事など仕事の責任が重くなるたびに元気になり1人で自転車で外出できるようにまでなった。そして1年後の2002年10月、両親と友人に祝福され結婚式をあげる事ができた。

 

こんな長くなるとは思わなかったが、書いてたらとまらなく…

カミサンの病気は完治する事はないが、落ち着いている。新婚旅行でハマったタイ旅行は1年半で4回も行ってしまった。給料は安いままなのに…我が家の家計は全てカミサンに任せてあるので、どういうトリックなのかボクには解らない。結婚前に我が家に迷いこんできた猫の「ゼニ」は、なくてはならない大事な家族として愛されている。今の目標は子供を授かる事と、沖縄移住。

まだ、次のページがあるはず…でもこっから先はずっとカミサンがとなりにいるはず。

そう思ってる。

 

  

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